大東亜

拡散する街

みんなが幸せでありますように。

これは総一?さんの手記をそのまま書き写したものである。和紙に筆で書かれていたが損傷や虫食いが激しく、認識は困難であったが、そのすべてをここに記すことができるに至った。文書に一切の修正は加えていない。

昭和三十二年八月十日

窓の外を通るトラックの騒音で目が覚めた。時計の針は十二時を少し過ぎたところだ。昨夜、嗜んだ薬のおかげでこのような時間に目が覚めるのである。カーテンを開き、窓を開け放つと、真夏のギラギラした日差しと、都会特有のむっとするような空気が部屋に入り込む。

わたくしは日々思う。こうして生きていることの不思議さを・・・。
思い起こせば、昭和六年九月十八日に満州事変*1が勃発した。これは日清・日露戦没における満州既得権益を確保するための武力発動であるとともに、在留邦人保護の為の軍事行動であった。七月には志那大陸北東四省に五族協和を標榜した満州国が独立した。同年九月十五日、日本國は満州国から脱退する主要な原因となる。第二次世界大戦の日本の敗戦、ソビエトの侵攻によって満州国が解体され、ソビエトから中国共産党の支配地域となると、この地域において独立を宣言した満州国は断罪の対象となり、戦後の中華人民共和国では、偽満州国(あるいは省略して偽満)と呼ばれることもある。)を承認し、日満議定書が締結された。

昭和八年五月三一日。『タンクー停戦協定』によって満州事変は一段落し兵火は収束した。この結果、日本国は、満州国*2の国防を全面的に負担することになり、対ソ防衛の最前線に推進された。日本国は満州建国の既成事実を強化し、日満支三国による東亜の新関係を建設しようとした。しかし、それは軍閥が跋扈する後進国とはいえ、孫文三民主義による国民革命を経て、政治的近代化を進めようとする蒋介石政府の容れるところではなかった。
昭和十二年七月七日。全く予想しなかった支那事変*3が勃発した。政府及び軍統帥部の不拡大方針にもかかわらず、戦火は北支から中支に拡大していく。日支両国ともに交戦権の発動は行わず国際法上の戦争状態ではなかったが、やがて全面抗争へと発展していくのであった。

わたくしは、このとき病を患い、床に伏していたのであるが、その心情は複雑なものであった。
病気療養中であったが、同時に痔の苦しみとも戦っていた。痔の苦しみは誰にもわかるまいて。わたしくは、この記中で戦火の経過についてを書き記すつもりは、終ぞも思いはしない。ここでは、己の暮らし向きや心境の吐露や描写を通して美的観照の世界を書き記そうと決めた。
常々に我が国の活躍の様を新聞から読みふける日常を送っていたのであるが、療養を口実にして、正直捨方便、この生活から抜け出したいと思っていた。
ここのところ、この部屋に閉じこもっていたためか、ふと散歩にでも出かけようかという心持ちになった。

続く

詳細な情報をご覧になりたい方は、以下をどうぞ。非常に興味深い、貴重な映像です。
「20世紀 映像コレクション」
http://www.bunmeisha.co.jp/eizo/eizo.html

*1:昭和の初め、満州(今の中国東北区)でおきた日本軍と中国軍との武力衝突。 実質的には日本軍による中国への侵略戦争。

*2:満州国もしくは満州帝国は、1932年から1945年の間、満州地域(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)に存在した国家である。満州民族の立てた王朝であった清の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のちに皇帝)とし、満州民族漢民族、モンゴル民族からなる「満州人」による民族自決の原則に基づいた国民国家であることを理念とする。しかし実際には、1931年の満州事変によってこの地域を占領した日本の政府・軍の強い影響下にあり、当時の国際連盟加盟諸国は、「満州国は日本の傀儡国家であり、満州地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが1933年に日本が国際連盟(1920年 - 1946年4月18日)は、第一次世界大戦の反省をふまえ、1920年に発足した国際平和機構。本部はスイスのジュネーブに置かれていた。常任理事国は、日本、フランス、イギリス、イタリアの4カ国がなり、これにアメリカを加えた5カ国が「世界五大国」と称された。設立を提唱したのはアメリカ合衆国大統領のウィルソンであるが、議会の反対(モンロー主義)があり米国自身は国際連盟には参加していない。 また、ソヴィエト政権は除外されていた。現在の国際連合とは異なり、総会は全会一致を原則としていたほか、軍を組織することができなかった。総会の他に、理事会、常設国際司法裁判所、国際労働機関、常設委任統治委員会、常設軍事諮問委員会、軍備縮小委員会、法律家専門家委員会などで構成される。1933年3月、満州事変での対日勧告を定めたリットン報告書を採択し、それに反発した日本は国際連盟を脱退した。この日本の行動に同調する形でドイツやイタリア、タイも脱退し、紛争解決に何ら効果を発揮できなかったとの非難を受けた。また後に加入が認められたソ連もフィンランドとの戦争に際して除名されている。このように大国の相次ぐ脱退による有名無実になってしまった点など極めて強い批判がある一方、非軍事面では効果をあげたとする指摘もある。国際連合の発足に伴い1946年に解散している。 国際司法裁判所や、国際労働機関は国際連合に引き継がれた。

*3:昭和六年に勃発した満州事変は、日清・日露戦争以来の我が国の利権を守りたい、とする国民の率直な願望を背景にした現地陸軍の一部が、排日運動に抗して自衛権を行使した紛争であった。しかし満州国の建設と支那北部に進出を伺う軍事優先の大陸政策は、支那への利権獲得を狙う英米と、伝統的南進政策のソ連による対日圧迫を生み出した。そして勃発した支那事変は、米英ソと結託して抗日戦線を築き我が権益を犯す蒋介石政権に対し、制裁を加え反省を求めるべく戦われたものである。これは実に複雑な性格を有しており、解き明かすのは当時の支那大陸を巡る欧米各国の目論見を考察しなければならない。表面上は日本と蒋介石の戦だったが、そこには米英ソ中共の戦略が錯綜していたのである。我が国は、日・満・支(汪兆銘政府)一体となった東亜新秩序の建設を目指したが、大東亜戦争の敗戦とともに挫折した。 その結果、蒋介石は台湾へ敗走、米の全面撤退、英は香港を残して撤収という結果を招き、ソ連の進出・中共の勝利で幕切れとなったのである。