吉野山

おととしの春、4月の終わり頃、吉野山へ行った。
もう桜も散りそめていたけれど、憧れの吉野は期待したとおりの処だった。
近鉄桜特急ライナーに乗り込むと、ウイークデーということもあり、車両には人影もまばらで、殆ど貸切状態。土日のン万人の人出でにぎあう吉野山という記事が嘘のようだった。
せかされるように、バスを二度乗り継ぎ、山頂に降車した時、細い声で、「帰りのバスはありませんから」と宣告された。ぎょえ〜〜〜。ががぁーん・・・とショックを受ける。どっどうするよぉ〜とうろたえながら、もしも、もしも、ですよぉ〜、下山途中で相方が盲腸にでもなったら・・一体どうなるんだろう??なんて妄想が頭の中に浮かんできた。いたって小心な私は、「帰りのバスが無い」この事だけで、慌ててしまうのだった。
何の下調べもなく、無計画な行動のツケがココへきて、やってきた。
いつも危機意識が強すぎて、ショックなことがあると、絶体絶命のシーンが身に迫り、究極の選択を強いられる自分を想像してしまう私。
さてさて、どんな旅になるのかと・・先がおもいやられる・・トホホ。

しかし、そんな危機感も、美しい桜色の点在する山々の風景を目の辺りにした時、すぐに吹っ飛んだ。水彩画のように目に優しく飛び込む色彩。淡い緑の絵の具を少しずつ、色を重ねたシーンが薄紅色と溶け合って私の前に一枚の絵に仕上がっている。
塗りすぎてその景色を邪魔することもないその日本画は、自然の美しさに満ちている。はらはらと散る花びらが時折吹いている春風とともに私に寄り添っている。見渡す限りの木々のそれぞれが、そこから何か匂立つように、何年もくりかえされただろうこの自然の輪廻をいやがおうにも感じさせてくれる。
今こうして、吉野山の頂に立つと、肌の呼吸までわかる、木々の呼吸を感じて、自然との対話などと大それたものではないが確かに、私の中に眠っていた感覚が、動き出しているのがわかる気がする。

小道を行く時、頬にかかるほどに、小さな花弁がはらはらと舞い降りてきた。思わず深呼吸をして、目を細める、胸いっぱいこの素敵な時を感じたい。

吉野では足元から桜が舞いあがってくる・・なんて事を、桜大好きな知人に聞いていたけれど、今回の旅で、それを経験することになった。
下山の途中、春風がいたずらするように、私の足元から小さな桜の花びらの大群を優しく吹き上げてくれたのだ。
ふわりふわりと・・舞あがるはなびら。おおおおおっっ〜見て見て〜と不覚にも声を出してしまう私。やっぱり、吉野へ来て良かった!これだ!これだ!と納得する私。

出会う人に道を譲り、静かな山道を行く時、自然の中にいると、どうしてこんなに気持ちが和むのか、いつになくロマンティックな気持ちになってくる。・・なんて思っていたらお昼時・・食べ物が無いことに気がつく。春霞に煙る山間の景色を臨むと、深呼吸とともに、おなかの虫もないている。ドリンクもお弁当もない始末。
「だんごより桜」。。そうはいかなかった。

つづく。